まさかのホンダが2スト50スポーツを投入、
50ccも'80年代のレプリカブーム真っ只中へ
50ccの原付一種は、’70年代までスポーツモデルが中型以上と変わらない本格的なフォルムで、高校生向けというより一般的に社会人の生活道具としての位置を占めていた。
それが'80年代に入るとレーサーレプリカの嵐が巻き起こり、50ccであろうとその渦に巻き込まれていくことになる。
その先鞭をつけたのが1979年のMB50。しかもホンダ初の2ストローク・ロードスポーツという、それまでGPマシンからスーパーカブまで、小排気量でも4ストロークを貫いていただけに、衝撃的なデビューだった。
7psの高出力、中型~大型スポーツと同じ前後18インチ、そしてパイプフレームと斬新さで常識を覆すイメージをアピールしていた。
まさか3年後に世界GPでも2ストNS500がデビューするなど、まだ誰も予想すらしていない頃だが、レプリカブーム到来の予兆だったのだ。
RZシリーズの末弟としてRZ50登場、
対抗してきたMBX50で50ccHY戦争勃発!
このRZ系列の50ccバージョンとして1981年にRZ50がデビュー、2ストGPマシンで対抗したホンダからも2スト水冷のMBX50が登場。
7.2psで何と6速ミッションと、法定制限速度が30km/hの原付一種とは思えない装備で競い合うこととなった。
そして予想外だったカワサキも、この50ccレプリカブームの波に乗ろうと世界GPの250cc/350ccクラスでタイトルを獲得したKR250/350のイメージで参入。
モペッドのみ生産していた時代以来の、久しぶりの50cc復帰だったが、既に先行ライバルが水冷化されていたのに対し空冷と、車体まわりが本格装備とはいえ、対抗するにはフィーチャー競走で届かず短命に終わった。
そして従来はRG50で定評ある50スポーツの雄だったスズキは、世界GPでホンダ・ヤマハを蹴落として頂上合戦に勝利したRGΓのレプリカ、RG50Γを1982年に投入。
フロントフォークにはANDF(アンチノーズダイブフォーク)と急激な前のめりを抑える装備に、リヤはフルフローターとこれもGPマシン譲りの高度なサスペンションを奢り、前輪17インチ後輪18インチの前後で径の違う仕様など、原付一種には過剰としかいえないフィーチャーの塊りだった。
そしてトップスピードも100km/hに届く性能となったところで、自主馬力規制に踏み切るメーカーもあり、遂に1985年から60km/hリミッター装着へと推移していったのだ。
それでも50ccのレプリカ熱は続き、
250ccクラスの進捗に追従する機種で続いた
1984年あたりに隆盛を極めていた2スト250レプリカは、ホンダに至ってはレーシングマシン開発と同時にベースの共有化までエスカレートするなどピークを迎え、徐々に400レプリカや750ccでも本格的なレプリカへと流行りも移行していったが、50ccレプリカたちは自主規制を通じ新たな方向性の模索もはじまっていた。
1987年、ホンダはNS50Fでレプリカ競走から降りる意向を見せたように思えたが、ヤマハがTZR50で依然としてピュア・レプリカ路線で進化するのを見るや、再びNSR250RのイメージをオーバーラップさせたNS-1で復活、ヤマハも'97年以降まで50ccとは思えない本格的な250ccレーシングマシンのフォルムを見事なまでに追求してみせたのだった。
しかし、このゼロハン2ストGPマシンレプリカには、もうひとつの流れが生じていたのだ。
12インチ、もしくは10インチとホイールを小径化、ボディサイズも低くミニマムな仕様とした、ミニバイクレーサーのカテゴリーだ。
1983年のホンダNSR50、1986年のスズキGAG、ヤマハも1993年にTZM50Rと世界GPで活躍したマシンと同名レプリカとするなど、それぞれルックスはマニアック一辺倒だったのが忘れられない。
そのデフォルメしたルックスの親しみやすさで、手軽にミニサーキットで遊べる新しいフィールドが展開されたが、街中の混合交通では小さなサイズの不安定さなど実用的にはいま一歩で、人気ではあったが大きな拡がりには至らなかった。