マッハⅢ、そしてZ1が登場する前に初の海外成功で道筋をつけた250ccA1
1966年の250A1輸出用カタログ
オートバイのエンジンだけ生産していた川崎航空機がアッセンブリーメーカーとして発進
1960年、カワサキがまだ系列の川崎航空機を名乗っていた頃、オートバイ用のエンジンを製造して車体へ組み立てる川崎メイハツ工業へ納品していたのが、販売不振で撤退の検討を経て自ら車体までを設計製造することとなった。
既にホンダがベンリィ125など成功を収め、ヤマハやスズキも続き、海外進出のためマン島T.T.出場へのチャレンジをスタートさせていたのだ。
1964年カワサキB8T
そして1961年にメイハツから自社生産としてB6を発売、実用車として頑丈に強化したB7が翌年にデビューしたが、先行メーカーはスポーツモデルを加える流れとなり、カワサキも遅れまいとB8に2人乗りシートを装備したB8Tで続いたのが1964年。
しかし、ホンダはマン島だけでなく世界チャンピオンを獲得、250ccのCB72でスーパースポーツのマーケットをヨーロッパとアメリカで獲得、続くヤマハも250ccで1964年に初の世界タイトルを奪取、YDSシリーズでホンダと同じく英国製650ccスポーツと変わらない性能をアピールして成功を収め、スズキも世界GP参戦から同じ道を辿りはじめていた。
B8Tがどれだけズレていたか、説明の必要もないだろう。
後発カワサキが存亡を賭けて海外進出を狙い、ホンダ・ヤマハ・スズキより高次元マシンをアピール
250cc2気筒で市販車初のロータリーバルブに分離給油、アルミシリンダーetc…
1967年にはストリートスクランブラーA1SSも加わる
明石の本社工場には直線のテストコースしかなく主に全米で走行試験を重ねていた
そのカワサキが1966年に250cc2気筒のA1でアメリカ市場へ乗り込んだ。
2ストローク2気筒は左右両側にロータエリーバルブが回転する、世界GPでしか見ることのできなかったメカニズムを、2気筒の市販車では世界発となる採用を果たし、しかも鋳鉄ライナーを鋳込んだアルミシリンダーは先行する日本メーカーも装備していなかったレーシングマシン並みの仕様、2ストでもオイルは専用タンクからポンプで強制圧送され、クラス最高の31PSに最高速165km/hとトップ、ダブルクレードルのフレームで当時100マイルで必ず発生するといわれた「ウォブル」なしと高速で揺れる現象が皆無と豪語した。
しかもニックネームにSAMURAIと、アメリカ人に容易く覚えてもらえるネーミングを与えての発売だ。
そして125ccクラスへ世界GP参戦も準備しながら、このA1発売と併行してアメリカで盛んな市販車の改造によるレースを意識したA1-Rという市販レーサーも発売、デイトナをはじめとするAMAレースへ参戦し、途中からレーシングマシンのイメージカラーを不吉とされるライムグリーンへ統一するなど、僅か2年の間に他メーカーの5~6年以上かかる経緯を圧縮したかのようなスピードぶり。
実はそこにオートバイメーカとして継続するか否か、まさに存亡を賭け全社一丸となっての闘いの渦中にあったのだ。
市販車デビューとほぼ同時に市販レーサーA1-Rが登場
デイトナへ大量のワークスマシン投入、不吉カラーのライムグリーンを纏っていた
その開発スピードとレーシングマシン同時開発で先鋭化イメージが最も濃いブランドとして定着
いったいどこで誰がいつ開発したのかと、ライバルメーカーも我が目を疑う大躍進で、このSAMURAIで注目を浴びた流れを受け継ぎ、僅か2年ちょっとで500cc3気筒のジャジャ馬で名を馳せたマッハⅢへと繋がっていったのだ。
そして遂に日本メーカーの頂点へと上り詰めた、ご存じZ1での大成功へと導かれるのだが、それもこれもA1 SAMURAIが全米でその名を轟かせたベースがあったからこその成果だったのはいうまでもない。
カワサキは、その後もNinjaなど日本製をアピールするニックネームで成功を重ねてきた。まさに他とは一線を画した独得な歩みが歴史の上に刻まれてきたのだ。
ネモケンも当時は全日本でA1-Rを走らせていた
その後に衝撃デビューした500ccマッハⅢも市販レーサーH1Rを同時開発