125cc4気筒エンジンはパワーバンドが僅か800rpm!
2ストロークのロータリーバルブ4気筒で34×34.2mmの124cc、40PS/17,250rpm 車重は95.5kg
日本メーカーがホンダを筆頭にヤマハやスズキが’60年代に世界GPへ挑戦、戦後にカメラと共に世界へ輸出を再開し、日本の工業力復活の象徴だった。
後発カワサキは、125ccで1965年から追送、当初は2気筒8段変速のKA-1だったが、1966年に開発したのはライバルのヤマハやスズキと同じ4気筒へと進化、1967年の日本GPに出場したのみで日本4メーカーの世界GP撤退で幻のマシンとなってしまった。
エンジンは2ストロークのロータリーバルブ4気筒で34×34.2mmの124cc、40PS/17,250rpmと125クラスではとてつもないハイパーエンジンだったが、パワーバンドが16,000rpm~17,000rpmの間に800rpmほどしかなく、これをトップスピードの200km/hオーバーまで繋ぐには12速もの多段ミッションが必要だった。
しかもこの800rpmちょっとの狭いパワーバンドは1秒もあるかないかで回り切ってしまうため、ほぼ毎秒のようにシフトアップしていく操作が必要だ。
そのためクラッチをいちいち切っている時間もなく、ライダーはハンドル左にあるホーンボタンのような点火のキルスイッチを押しながら、クラッチレバーを握らずに矢継ぎ早にシフトアップを繰り返していた。いわば現代のパワーシフトと同じ仕組みを手動で操作していたワケだ。
このクラスはスズキが同じ4気筒で14速ミッションと最多段、同社は50ccクラスの2気筒で14~16速ミッションも開発していたという多段ミッション時代だった。
同じ時代にカワサキは当時アメリカで売り込み中の250ccA-1をベースに、市販レーサーA-1Rを発売してパフォーマンスカワサキのイメージアップを図っていた
SAMURAIのニックネームでマッハIII登場までカワサキのメイン機種だった250ccA-1。GPマシンと同じ250ccクラスのスポーツバイクでは唯一のロータリーバルブ搭載という気鋭マシン。当時は英国勢の大型スポーツに倣って、アメリカで人気のストリートスクランブラーを同時にラインナップするのが定番。カワサキもA-1SSを併売した
この年代にカワサキ・サテライトチームのライダーだったネモケン。デイトナカラーのライムグリーンに塗り替えたA-1Rで全日本を転戦した