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このバイクに注目
HONDA YAMAHA
1963〜1965 model

1960年代前半からあった国内HY戦争【このバイクに注目】

’60年代前半に火がついた国内90cc人気

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HONDA SPORT CUB CS65 1964年

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YAMAHA YG-1 1963年

かつてホンダが、乗用車の排気ガス対策(CVCC)エンジン開発でスポーツバイク開発から手を引いていた後、復活を果たした1979年のCB750Fを皮切りに、10年続いた最大のライバルだったヤマハとのHY戦争。しかしその20年も前に、この壮絶な闘いは火ぶたを切っていた。
‘60年代初頭に世界進出を狙い世界GP挑戦を開始したホンダに続き、ヤマハも参戦しタイトル争いで一騎討ちを繰り返すこととなった。これは国内のスポーツバイクマーケットでも熾烈な戦いとなり、海外では主力の250ccでヤマハは後塵を拝していたが、まだ小排気量が主流だった国内ではGPレースと逆にヤマハが先行してホンダが巻き返す、そんなHY戦争が’60年代前半からはじまっていたのだ。

1963年、ヤマハはYG-1という75ccのユニークなデザインのスポーツバイクを発表した。
それは50ccの原付を2人乗りできるように55ccへ拡大した黄色ナンバーの原付二種の概念を打ち破り、新たなカテゴリーとして世に問うスポーツマシンだった。
ホンダも負けじとスポーツカブを65ccまで拡大、OHVOHCへグレードアップしたが、ヤマハの世界GPマシンと同じ2ストロークでロータリーディスクバルブという、吸気に切り欠きを入れた円盤が回転してキャブレターをエンジン横に配した先鋭のメカニズムに圧倒されていた。
ヤマハはその後に分離給油(それまで2ストロークはGSでオイルをガソリンへ混ぜた混合燃料を給油していた)と画期的な方式を採用して、需要が爆発的に伸びたこのクラスで独走したのだった。

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世界GPでは後発だったヤマハの2ストローク・ロータリーディスクバルブ(キャブレター位置でカウルが左右に膨らんでいた)搭載のRD56が、先行していたDOHCで4気筒のRC164に肉迫、遂に世界タイトルをホンダから奪った。

ホンダは海外で主力の250ccスーパースポーツでCB72がヤマハYDS1〜2に圧勝していたが、指をくわえて見てはいられないと国内の主力となりつつあった90ccクラスに誰も想像していなかったファイナルウェポンを投入したのだ。
何とTボーンフレームという、それまで小排気量クラスはフレームをプレスバックボーンの鋼板を加工したリヤのフェンダーまで一体モノだったのを、フレームとフェンダーを切り離した本格的なスタイルを採用、しかも小型バイクは17インチ前提だったのを、前後18インチの250cc以上が採用する本格スーパースポーツのホイール径としたのだ。

ライバルより豪華なひとクラス上の仕様で、
決定的な差をつけようと宣戦布告!

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HONDA BENLY CS90 1965年

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YAMAHA AT90 1965年

車格も125cc以上、250ccスーパースポーツを連想させるデザイン、まさに90ccクラスで優越感に浸れる勝者のマシンというイメージが漂い、ホンダが一気に巻き返した……と見えたのだが、ヤマハはここで超絶切り札を投入してきたのだ。
それは125ccが下限と思われてきた並列2気筒エンジン。まさかの気筒あたり45ccというハイメカニズムは人々の目を奪った。ヤマハAT90は、気筒あたり45ccと超ハイメカで高回転サウンドを響かせながらGPマシン直系のイメージで圧倒的な人気を誇ったのだ。

こうしてお互い90ccの概念を打ち破るマシンの投入で、ファンもホンダ派とヤマハ党のまっぷたつに割れることとなった。

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いっぽう世界GPではヤマハに奪われた250タイトルを、ホンダは4気筒をやめて20,000rpmが可能な超精密DOHC6気筒で対抗、瞬く間にタイトルを奪還して見せた。

ヤマハも空冷の並列2気筒をやめ、水冷化しただけでなく125ccのGPマシンRA97の2気筒を上下に連結、V4レイアウトのメカニズムでチャレンジ、再びタイトルを奪い返したのだ。この熾烈な闘いはさらに激化していき、遂にFIMは日本メーカーのエスカレートぶりにヨーロッパなど他国メーカーが追随できないと判断、各クラスに気筒数とミッションの変速段数を規制で制限するレギュレーションを発表、ホンダは「走る実験室」の意義を失ったと世界GP撤退宣言をすることとなった。
しかしその規制でも市販レーサーを主力にレース参戦を続けたヤマハは、その10年後にホンダから宣戦布告をうけ、’80年代のHY戦争と呼ばれた時代へと突入したのだ。