ホンダのVFやNRの影もカタチもない1977年の東京モーターショーにYZR1000デビュー!
1977年の第22回東京モーターショーのヤマハ・ブースに、白に赤ストライプのワークスマシンカラーの謎のマシンがリリースされていた。
車名はYZR1000。
1,000ccV型4気筒の耐久レース用プロトタイプ・マシンだ。
日本メーカーによる初のV型4気筒マシン……しかし驚いたことに、この衝撃的な出来事に世界の反応は鈍かった。
あまりに唐突で、単なる夢の未来バイク、モックアップ的なお飾りにしか見えていなかったのかも知れない。
V型4気筒といえば、1980年代からホンダ逆襲の尖兵として750cc、400cc、1,000ccクラスへ一気に展開をはかったホンダのまさに懐刀。
NR500にはじまり、先進性の塊り、新しさのイメージで押しまくったエンジン型式だ。
しかし1977年は、ホンダの世界GP復帰宣言もまだでV型4気筒のエンジン型式にまったく馴染みがなかったともいえる。
しかしヤマハでは、001というコードネームのもと、このプロジェクトでまったく新しい90度V型4気筒エンジンを誕生させていた。
さらに最終段階では試作エンジンを載せた走行テスト用のプロトモデルが製作されたが、耐久レースはプロトタイプ出場が禁止され市販車ベースのみが走れるレギュレーションへ変更されてしまった。
このため遂に実戦投入されることなく、モーターショー展示ブースでその存在をアピールしたのがこのYZR1000、ワークスマシンに与えられるOWの型式名ではOW34だった。
最高出力135PS、275km/hとショーではYZR500を遥かに上回るスペックが表記されていた。
まさに同じ1977年には、2スト500cc並列4気筒のYZR500が破竹の勢いで活躍。カウルなど全体のフォルムを継承していたが、燃料タンクのクイック・チャージ給油口、エンジン位置を少しでも前進させフロント荷重を稼ごうと、両サイドへ振り分けられたラジエーター用冷却エアダクト、そして24時間を闘う象徴として背の高い大型スクリーンに大きな違いがあった。
世界GP500ccクラスの4スト化もチャレンジしていた!
とはいえ、4ストロークレーシングマシンの開発が消滅したわけではなかった。
ホンダNRに対抗する、500cc・V型4気筒・7バルブエンジンの研究(001A)がスタート。
70×32.4mmの超ショートストロークで125PS、20,000rpm以上も回るパフォーマンスを得ながら、モータースポーツへ勢い込む姿勢を自ら抑える経営方針の転換にこの開発も飲み込まれていった……。
果たしてこのプロジェクトが継続されていたら、HY戦争など展開は大きく変わっていたのかも知れない。
1980年代のクルーザーやトラディションルスポーツはV型エンジンがヤマハの主軸に……
その後もヤマハは将来を担うエンジン型式としてV型開発を継続。
まずは空冷Vツインで1980年にXV1000とXV750Specialを投入、続いて水冷DOHCで1982年にXZ400、そしてビッグクルーザーXVZ1200ではV型4気筒もリリースした。
そのXVZエンジンを使ったVMAXが1985年に登場。
そのV4エンジンの外観に、1977年のYZR1000の面影を残していたのだ。
ヤマハではそれからも空冷と水冷の両方で、主なスポーツバイクにV型エンジンを採用することが多く、まさについ最近まで主軸となっていたのはご存じのとおり。
1977年の東京モーターショーで、ヤマハがV型エンジンの歴史をスタートさせるとは、ファンの多くはまったく想像すらしていなかったはずだ。
こうして歴史を振り返ると、ドラマチックな運命ともいえる悲喜こもごもな展開の凄まじさをあらためて思い知らされる。