いまやMotoGPでもスーパーバイクでも、ドゥカティ強しが当たり前になっています。でも昔はそこまでの勝負はできていなかったと思います。いつ頃から頭角を現したのでしょうか?
A. 世界中を驚かせたのが1978年のマン島T.T.でしょう。マイク・ヘイルウッドのカムバックと共に、ホンダのワークスRCBをブチ抜くポテンシャルにボク自身衝撃をうけました。
これで日本車に勝てると思ってた?と疑いの目だった……
第二次大戦後に、ほぼホンダと同じ頃にモーターサイクル・メーカーとして出発したドゥカティ。
実は当初からレース好きで、1956年には鬼才ファビオ・タリオーニがデスモ(閉じ側もカムで駆動する強制開閉バルブ)を搭載した125ccマシンがデビュー、ホンダより随分と早くチャレンジを開始していました。
市販車はシングルで'60年代初めからアメリカにも輸出されるようになり、125→200→250→350と同じ単気筒をベースに排気量を徐々にアップ。
1969年、遂に単気筒が450デスモとなり注目を浴びましたが、日本にはほぼ輸入されていないに近く、そのブランド名さえ知られていませんでした。
そのドゥカティがいよいよビッグバイクへのチャレンジを開始。培ったシングルをもう1気筒水平に加えた90°Vツイン(Lツイン)は、1972年のイモラ200で当時のF750マシン(日本勢は2スト)にポール・スマートとブルーノ・スパジアーリで1-2フィニッシュの快挙を成し遂げたのです。
このイモラ200で勝利したベースの750GTを、スーパースポーツへチューンした750SSが1973年にデビュー。
日本車CB750フォアに蹴散らされたトライアンフをはじめとする英国勢やBMWに代わって、肩を並べる唯一のライバルとして期待される存在でした。
1975年はボクが世界GP遠征をはじめたシーズン。そこでこの750SSを試乗する機会がありました。
しかし、パワーをまるで感じない非力なエンジンで、車体がフラつき恐ろしくてバンクできないハンドリング……こりゃアンチ日本車のジャーナリストが、身贔屓で大袈裟に誉めたに違いない、とんだ食わせモノと呆れてしまいました。
マン島でヘイルウッドがまさかのブッチ切り!
ところが1978年、マン島T.T.で'60年代に絶対的王者だったマイク・ヘイルウッドがカムバック、何と選んだマシンが英国のショップがチューンしたドゥカティ900SSと???だらけの筈が、ホンダ・ファクトリーのRCB1000をブチ抜いて独走で優勝という、とんでもないコトが起きてしまったのです。
しかもマン島T.T.直後の英国マロリーパークへボクも参戦していて、同じT.T.フォーミュラでスタートで出遅れたにもかかわらず、ホンダRCB1000を何とコーナー進入で抜き去りそのまま引き離していくシーンを目の当たりにしました。
いくらデスモとはいえ大排気量の2気筒が10,000rpmまで回るのを試したこともなく、単気筒と同じ幅のスリムさを運動性として捉えられず、おまけにトラクションの使い方も未熟だったボクに、ドゥカティのポテンシャルはまるで理解できなかったというワケです。
以来、日本車のエンジン幅に頼ったフロントの安定感ではなく、運動性を優先した車体を操作する手段として体幹移動を使うライディングを覚えようと、バイク雑誌では概念を棄てることを意識するようになりました。
徐々に同じ土俵で勝負、いまや肩を並べる以上に
マイク・ヘイルウッドの活躍後、ドゥカティはデスモOHCをベベルギヤで駆動していたのを、新しくコグドベルト駆動とした、40年近く経ったいまでもベースを共有するLツインを開発、600ccでマン島F2を制し750ccでF1の領域へもチャレンジを開始しました。
さらに851系からスーパーバイクへも参戦、916で他を圧倒するまでになり、MotoGPへのチャレンジもスタート、2007年にケーシー・ストーナーで初のチャンピオンに輝いたのはご存じの通り。
そしていまや説明の必要もない、スーパーバイクを制圧、MotoGPでも圧倒的な優位を誇るまでになっています。
市販車もどれも新しいテクノロジーを常に投入する積極性が功を奏した乗りやすさで、この熱く急ピッチで展開される姿勢に、残念ながら日本車は対抗できないままが続いています。
果たしてこのまま独走が続くのか、ドゥカティファンならずとも目が離せませんネ。