’60年代にホンダが海外進出で成功したのは世界GP制覇より前だった!
DREAM CB72 SUPER SPORT 1960年
1959年に発表、1960年から発売されたホンダ初のスーパースポーツ、ドリームCB72(シービー・ナナニィ)。そもそも日本にスーパースポーツが存在せず、国内向け実用車の仕様では海外では見向きもされなかった時代に、世界で大ヒットを飛ばそうと勝負をかけたモデルだ。
そのCB72は、ご覧のようにいま見ても新鮮に思えるフォルムで、いかにも世界へホンダの名を知らしめた名車の佇まい。その技術的なチャレンジの数々と共に、どうしてこれだけの画期的なスーパースポーツが完成できたのか、そのプロセスを紐解いていくと唯々驚くばかり。
おそらく多くの方は、ホンダはマン島TTでの成功をきっかけに、世界へその優秀さをアピール、一気に世界制覇へ辿ったイメージをお持ちだろう。
しかし時間軸の経緯で検証していくと、そうした順番で展開されたサクセスストーリーではなかったのだ。
DREAM SA 1955年
DREAM C70 1957年
DREAM C70 1957年
DREAM CS71 1958年
戦後すぐ自転車用の補助エンジンからスタートしたホンダが、小排気量車が群雄割拠した時代を勝ち抜き、荷台に大きな荷物を積載できる220ccのドリームを製造するまでになったのが1954年。
続いてOHVが常識だった当時、フルスケールとした250cc単気筒で早くもSOHCのメカニズムを採用したドリームSAを翌年に発売、さらに2年後の1957年には2気筒OHCのC70を発売、これがCB72エンジンのベースとなるという全てが急ピッチで展開されていた。
因みに当時の250ccはそのデザインからイメージできるように、いまでいう750~1,000ccのフラッグシップ的な貫録のある存在。C70もフレームをプレス鋼板バックボーンという、スーパーカブなど小型バイクの構成をそのまま大型化、ツーリングを意識してセンターアップマフラーとしたスポーティンなCS71もラインナップに加えたが、海外での高速で走らせる状況には対応できるレベルになかったのは容易に想像できる。
RC160 1959年
CR71 1959年
RC143(125cc) 1959年
これより前、世界戦略のベースとなるマン島TT出場を既に宣言していたホンダは、国内の浅間火山レースを勝つために250ccDOHC4気筒のRC160を開発、さらにはCR71と名付けたドリームC70エンジンをベースにパイプフレームへ搭載した将来の市販レーサーを睨んだモデルも開発、そしてマン島TTへ挑戦する125cc2気筒のRC143も開発、すべて1959年のことだ。
というこの同じ時間が流れるの中で、C70エンジンを各気筒へキャブレターを配したツインキャブをはじめ、9,000rpmと一気に高回転化したCB72エンジンを併行して開発していたことになる。その発想から具現化していく技術開発力の猪突猛進ぶりは並大抵ではなかった。
スーパースポーツ仕様を満載する意欲の凄まじさ!
CB72は初のタコメーターを大型の速度計と並べ9,000rpmにレッドゾーンを設定
何と’60年代に不等間隔(180°)と等間隔(360°)の異なるクランク位相を用意!
マン島TTでの実績をまだアピールできる段階ではなかったが、それでも海外の大型スポーツバイクを凌駕する250ccスーパースポーツとして勝負できるよう、CB72の仕様は超絶マニアックな内容となっていた。
エンジンは当時よく使われた高出力の象徴としてリッターあたり100PS相当の24PS/9,000rpmで、市販車としてはあり得ない高回転高出力型。しかもクランクシャフトにType1と点火ポイントカバーに刻んだ180°位相と、Type2と刻む360°位相の2種類を用意、出力は同じでもトップスピードでType1が若干伸びがあるものの、中速域以下の扱いやすさではType2が優位としていたのだ。
「70km/h以下ではトップギヤが使えません」などと表現されたType1のキャッツフレーズに、走り屋ライダーが心躍らされたのはいうまでもない。
フレームはCR71で開発したパイプフレーム、フロントフォークも海外一流スポーツモデルと同じテレスコピック、そして前後18インチと当時のハイエンド仕様すべてが採り入れられていた。
また一文字ハンドルと呼ばれる短いパイプハンドルの低い前傾姿勢と相俟って、ステップ位置が思いきり後退、且つその前後や高さを調整できるセレーションを刻んだステッププレートと、ギヤチェンジのペダルを後退した位置とを結ぶシフトリンケージ構造など、海外メーカーのレーシングマシンでしか見られないマニアックなプロ仕様としていたのだ。
スーパースポーツというと、性能本位で重量増を避けるスパルタンなキック始動が常識だったのに対し、イージーなセル始動として万一用に残したキックはステップ位置との関連で前踏みというコツの要る設定を選んだり、フロントブレーキが初期型ではリーディングトレーリングだったのを、より高速に強いツーリーディング化するなど、意識の高いライダーへの訴求力もホンダの強みで、濃いファンを育む資質に溢れていた。
前傾姿勢で後退したステップ位置は可変、シフトペダルもリンケージを介した本格的なレース仕様!
1年後から用意されたアップハンドルで扱いやすさを高めたCBM72
とはいえ海外も含め、ここまでスーパースポーツの先鋭化を求めない層も実際には数多くいて、1年後にアップハンドルとエンジンをType2と組み合わせた、CBM72をラインナップに加え、より幅広い層へ向け拡販が継続されていった。
そこへマン島TTをはじめとする世界GPでの結果も追い風となり、ホンダは英国勢など大型500ccクラスのハイエンドスポーツと同等のトップスピードが可能で、それがハイメカニズムとはいえ250ccであるため1/3~半額で手に入れられるとなれば、若い年齢層を中心に爆発的なヒットとなるのは当然だろう。
このCB72を契機にホンダの世界戦略は圧倒的な攻勢が続き、世界GPの多気筒化に高回転化は250ccで6気筒20,000rpmまで達し、1966年には50cc、125cc、250cc、350cc、500ccの5クラスでメーカータイトル全制覇と僅か6年の短期間で駆け抜けるスピード感だった。
もちろん当時はすべてが未知へのチャレンジで、リスクを避けようにも闘ってみなければわからない状態。考えつく可能なことはすべてチャレンジとして注ぎ込むしか、勝てる方法はなかったといえる。
ただ明確なのは、スーパースポーツがメジャーなカテゴリーではなく、超マニアックなマイノリティでの勝負であることをホンダは百も承知で、ひたすら邁進する姿勢に世界中のファンが共感した史実で、’80年代のHY戦争でも輝きを失わずにいた。
スポーツバイクの魅力は、多くが受け容れやすいわかりやすさではなく、ファンでも気づかなかった新しいテクノロジーやコンセプトで、マイノリティとしてのチャレンジを続ける姿勢にあるのはいまも変わっていない。
そんなホンダらしさに期待している多くのファンへ、他にないオリジナリティの塊りのような斬新なスポーツバイクで応えて欲しいと願うファンは少なくない。