ヤマハの誇りYZR500のレプリカを2st.フラッグシップとして挑戦!
ヤマハは1984年、2ストロークのレプリカの頂点、RZシリーズのフラッグシップとしてRZV500Rをリリース。
実はこのタイミング、ヤマハにはFZ400RやFZ750など4ストロークエンジンを搭載したスポーツモデルがヒットする直前で、ユーザーがバイクライフを楽しむにはツーリング仕様を重視すべきという同社の良心にこだわる姿勢を貫いていた。
しかしライバルたちはパフォーマンス最優先でまっしぐらに突き進み、HY戦争と呼ばれた混迷状態にも辟易としてきたヤマハは、マーケットのニーズなど考えず誇りを持てる夢のバイクを開発しようという決断を下したのだ。
そして出てきたのが、世界GPシーンでリードを続けてきたYZR500をイメージさせる、レプリカというよりスーパーカーのようなフラッグシップをつくってみたい!というエンジニアたちの願望だった。
ところが当時、そのYZR500は大転換期を迎えていた。
それまで250cc並列2気筒を横連結した並列4気筒だったYZR500は、ホンダが2ストNS500開発やスズキのRGB500などの追送も厳しく、よりパワフルなのはもちろん、コンパクトで運動性に優れた新しいエンジン形式の模索をはじめていたのだ。
まず1981年に従来からの並列4気筒と併行して投入されたのが、0W60と呼ばれるクエア4気筒。2気筒の両サイドにロータリーバルブという円盤が吸気タイミングをコントロールする、ヤマハも1960年代からレースで実績を積んだ形式で、これを前後でギヤ連結、上から眺めるとスクエア(四方)に気筒が並んだ横幅をスリム化できたマシン。
ただこれではスズキRG系と同じ形式なのと、運動性を優先したコンパクト化ではないことから、V型にシリンダー配列する新しい構想へとチャレンジが開始された。
それが1982年に登場した0W61。40°と狭いバンク角の真ん中に何と2対のロータリーバルブがギヤ変換でクランクに横方向で回転する画期的なレイアウト。
さらに質量の集中化を狙い、リヤサスをエンジン直後で真横へ寝かせてマウント、ユニットの両側からリンクでフローティング作動する仕様だった。
開発陣はこのNewエンジンに魅了され、他に例のないこのV型4気筒を市販車仕様とする試みに着手。ただ市販車はエアクリーナーや発電系に街中で使う低回転域の対応と、この0W61そのままというワケにはいかない。
とくにV型4気筒の狭いVバンクに吸気系を納めるのは容易ではなく、最終的に選んだ仕様は50°のVバンク間に、前バンク2気筒は低速域で優位なクランクリードバルブ、後バンク2気筒は中速~ピーク域で優れるピストンリードバルブという、異なる吸気方式のエンジンを連結する前代未聞のこととなったのだ。
ということでエンジン開発チームはクランクリードバルブの開発とピストンリードバルブを開発する2チームに分かれ、当然といえば当然の異なるエンジン特性を統合するのに様々な経験のない苦労を強いられている。
これをクラッチハウジングのギヤ連結した際の各脈動の違いによるバックラッシュ対応の特殊ギヤと、並列2気筒のダイナミックバランスを釣り合わせる1軸バランサーが駆動される、何とも特殊で複雑な構成となった。
さらに4個のキャブレターもそれぞれ外を向いた横マウントとなり、エアクリーナーからの吸気通路はカウリングの内側に一体となった構造で、カウルなしでは走行できないという概要を把握するのに時間を要する複雑さ極めたカタチだ。
ボア56.4mm×ストローク50mmの499ccで自主規制上限の64PS/8,500rpmと5.7kgm/7,500rpmだが、輸出仕様はフルパワー88PSを発揮した。
エンジン回転によって排気ポートの高さを可変とした、中速域で有効トルクを稼ぐYPVSが装備されていたのはいうまでもない。
リヤサスは置き場がなくエンジン下にリンクを介して水平縦置きに寝かされたマウント方式。乾燥重量173kgに収めた1,375mmのレーシングマシン並みのショートホイールベースは、エンジン回転が中速域以上で不用意にスロットルを大きく開けると容易くウイリーした。
ただ前輪荷重を増やすと軽快性を損なうため、前輪に小径16インチで荷重変化で跳ねない減衰性を与えたロープロワイド扁平を採用。
そして230km/hへ瞬く間に到達するため、ブレーキのディスクをベンチレーテッドという冷却風がディスクの中を抜ける構造の過熱対応した豪華仕様を奢っていた。
輸出モデルは鉄角パイプフレームに対し、国内向けのみアルミフレームを奢る!
こうして世界へ向けリリースされたRZV500Rは、ヨーロッパ向けではRD500LC、北米のカナダ仕様ではRZ500と車名が違っていたが、海外向けはフレームがスチール製角断面パイプだったのに対し、国内向けはオールアルミの軽量で高剛性な仕様を奢っていたのだ。
このため国内モデルの価格は825,000円と、当時のナナハンより高価なまさにフラッグシップ。このため当初は限定モデルを想定していたが、さすがに手が届きにくいのと2ストロークの操るのにキャリアを要する手強さに、注目を浴びながら憧れだけに留まる存在……それが結果として希少台数となりいまや中古車価格は天井知らずだ。
対して輸出モデルは、2ストロークファンに相応の人気があり1万台を超える生産となった。
カタログでは1984~1986年モデルとなっていたが、実質は1シーズンと短命に終わったRZV500R。エンジニア夢のバイクは当時の感覚では高嶺の花で、おそらくTZRが登場して後の、4ストロークもFZR750R(0W01)がリリースされた1989~1990年あたりなら、ニーズは圧倒的に高かったはずだ。
ただ何れにせよ、エンジニアがマーケットニーズではなく、自分たちの夢を具現化しようとすると、未知の領域での苦労も厭わず突き進む姿勢にファンは痺れてします。まさに趣味の領域ならではだろう。