YZRにTZとの併行開発で妥協のないハイエンドマシンへと進化!

1991年、ヤマハは2スト250の1軸Vツイン、TZR250Rをリリース。
ピーキーな2ストとは思わせないワイドな力強さに、オンザレールで前後輪のグリップ感が確かな、まさに高度な完成度を誇るレプリカ時代を締めくくるに相応しい傑作マシンだった。



しかし、ここへ至るまでにヤマハには紆余曲折があった。
いちばんのネックが、公道を走るスポーツバイクはレーシングマシンのような狭い範囲で高性能を追い求めるにではなく、誰が乗っても安心して楽しめる広範囲な扱いやすさと、完全に分け隔てていたこと。

1980年のレプリカブーム火付け役のRZ250は、まだ一般公道を走るバイクにカウルなどあり得なかった時代に、レーシングマシンのカラーリングや2ストでハイパーを象徴するマフラー形状のチャンバー(膨張管)など熱き仕様で一躍大人気。
続く1983年のRZ250Rではエンジン技術をまさにレースからフィードバック、ハンドリングのレベルアップでコーナー大好きライダー育成へと道を切り開いた。



そして1985年、TZR250と命名されたフルカウルのマシンは、何と世界制覇したワークスマシンYZR500の設計エンジニアが直接開発する超スペシャル・プロジェクト。
いかにもヤマハらしく、500ccビッグマシンのサイズがもたらす乗りやすさ、GPチャンピオンも警戒しない特性のほうが攻められるという重要なフィードバックから「感性に馴染みやすい」マシンに仕立てられていて、それはプロを唸らせるとてつもなく高いレベルの完成形にまで仕上がっていた。



しかし、直接のライバルとなるホンダの2スト・レプリカは、経験の差を埋めるため一気にレーシングマシンと同時開発するショートカットしたようなダイレクトな手法で、鋭く刺激的なフィーリングはヤマハのコンセプトを凌駕しはじめたのだ。
この旗色に負けじとヤマハが初のレーシングマシンと同時開発したのが、後方排気の1989年TZR250だった。
とはいえ、いつの間にか追われる立場から追う立場へと、入れ替わってしまった状況を逆転するのは容易なことではない。


そこで選んだのが全く新規の1軸Vツイン・エンジン。
世界GPで闘うワークスマシンYZR250で開発、これを世界で圧倒的優位だった市販レーサーTZ250へフィードバックして、同時に市販車TZR250Rとしてデビューさせる究極のレプリカ・プロジェクトだった。



1987年、この一軸VツインのYZR250は2シーズンで吸気レイアウトの変更など大英断を繰り返し、1989年に偶力バランサーとエンジンのリジットマウントなどで一気に進化、1990年にコシンスキー選手が世界タイトルを手中に収めた。
この1989年モデルを、ダイレクトに市販プロジェクトへと開発を進め、1991年に1軸Vツインの市販レーサーTZ250をリリース、そして計画通り公道レプリカのTZR250Rもマーケットへと投入されたのだ。


ワークスマシンで得た90°Vツインでも2ストなので、1次圧縮の必要性からふたつのクランクを回す位置関係が振動を発生して高回転域の伸びを妨げる面を独自のバランサーで解決・
そもそも排気ポートを可変とする排気デバイスをいち早く採り入れていたヤマハらしく、低い回転域からダッシュできるトルキーな中速域、そしてオーバーランをスムーズに許容する高回転域と、250ccと思えないパフォーマンスで人々を驚かせた。
さらにハンドリングは、まさにヤマハが紆余曲折してきた経験の豊富さで、攻めていて限界域がわかりやすく、そうした傾向のハンドリングが前輪のプッシュアンダーを生じやすくなるのを、アライメントや剛性バランス、さらには厳密につくり込んだディメンションの適切だが、高次元のバランスの良さを発揮。
やっぱりヤマハはレベルが高い、そうファンにいわせる説得力を漲らせていた。
その自信はデザイン面でも功を奏したのか、誰が見てもセンターにコンパクトで凝縮された革新的な1軸Vツインが存在し、剛性たっぷりのメインフレームが堂々と構えたカタチが、いかにも優れたオーラを発していたのはいうまでもない。
またヤマハのレーシングマシンのコーポレートカラーだけでなく、一部のファンに人気だったブラックでツートン、そしてブルーでもコントラストをみせるセンスもさすがといわせた。
またこのカテゴリーでは当然の、乾式クラッチを装備してそのままレース実践へ投入できるSPバージョンが追加された。
とはいえ、すでに2スト250ccレプリカは、レースでの盛り上がりもピークを過ていて、この1軸VツインTZR250Rはヤマハにとっても有終の美を飾るに相応しい存在となった。



