レーシングカウルや外装パーツで名を馳せるマジカルレーシング。積み上げた造形ノウハウと独自のアイデアで、日本のボディワーク界を牽引する代表の蛭田 貢さん。溢れるバイク愛とチャレンジ精神で、常に全力で走り続ける!
カタチと機能を追求するボディワークの巨匠
溶けるような真夏の暑さの筑波サーキット。パドックでレース仲間を手伝って甲斐甲斐しくセッティングや走行準備を行う男性がいる。小柄だが引き締まった身体で、少し強面。しかし、周囲を行きかう多くのバイク関係者やライダーから、頻繁に挨拶の声がかかる。すると途端にフレンドリーな満面の笑顔……。その人こそ、レーシングカウルや外装パーツなど、日本を代表するボディワークの草分けである「マジカルレーシング」の代表、蛭田 貢さんだ。
1952年生まれの蛭田さんは、少年時代(?)にホンダのカブに乗り、20歳の頃にレースを始め、当時の全日本ノービスにヤマハのTD-2で参戦。とはいえ、3~4年で8戦ほど出ただけでレースをやめて、サーフィンに明け暮れた。
「定職に就いたことが無く、サーフィンやスノーボードばかりでした(笑)」と、当時はバイクの外装パーツ作りを生業にしようと考えたことはなかった。
「その頃はタクシー運転手をしていたんだけど、なぜか『FL(当時の四輪フォーミュラカー)のノーズカウルを作れないか?』って話があって。どうやって作るのかわからないのに引き受けてしまった。そこで初めてFRPという素材に触れ、形状は自分なりに空気の流れを考えて“平面ラジエターの前から入った空気が上面に抜けて……”とか工夫しました。それは、失敗したんだけど(苦笑)」
バイクづくりも足周りのセッティングも、ポジションを合わせるのも常に真剣。真剣に遊ぶため何事にも全力で挑む
1978年にマジカルレーシング を設立
FRPによる造形を知った蛭田さんは、それからも独学で趣味のサーフボードやスノーボードを作ったりしたが、1978年にマジカルレーシングの看板を上げた。
後輩のTZレーサーのシートカウルを作ったり、やはりサーフボードのシェイプをしたりしていたが、'80年代を迎えて爆発的なバイクブームが到来。ノービス(アマチュア)のレースも盛んになり、ホンダCBX400Fのタンクカバー付きシングルシートを製作すると飛ぶように売れた。その後に訪れたレプリカブームでホンダNSR250Rのパーツが大ヒットし、マジカルレーシングの名は一気に知れ渡った。
蛭田さん曰く『'80年代は、とにかく作れば売れた』時代。仕事は安定したが、自身がバイクに乗る機会は減った、というよりほぼ皆無。20代前半のTD-2で出たレース以降は、’82年の鈴鹿スーパー1000に、バイク仲間の山本英人さん率いるヤマモトレーシングのCB900改で参戦しただけ。
後輩レーサーに慕われ、レース等でサーキットに赴くことは多かったが、それ以降はサーキット走行すらしなかった。そもそもバイクもサーフィンやスノーボードと同じでアクティブスポーツとして捉えていたから、ツーリングに出ることも無かった。
蛭田さんのレース仲間でありライバル(?)でもある水沼義隆さん。水沼さんは訪問介護を行う会社「せせらぎ」の代表を務める。レースチームの運営も人材確保の一環だという
RG500Γでバイクに復帰
ところが……。
「2000年頃に『もうすぐ2ストロークのバイクが無くなる』って噂が出て、それでスズキのRG500Γを手に入れた。それが49歳の時。せっかくならいちばん大きいヤツ(大排気量)に乗ろうと思って。実際乗ったら凄く速くて良いんだけど、カタチはどうしても納得できなかった。まぁ、ガンマに限らず、基本的にノーマルのデザインって、気に入らないんだけど(笑)。もちろんガンマの外装パーツを作っても商売にはならないけど、『物づくり』を考える時の良いベースになっている」
そんな蛭田さんのRG500Γは蛭田さんのレース活動再開とともに20年近くも進化を続け、現在はGPマシンと見紛うばかりのルックスに。ガンマと共に蛭田さんの熱い走りをイベントレースで目にした方も多いだろう。
元WGPチャンピオンの原田哲也さんとは、耐久レースのチームメイト。筑波TOTでは原田さんが駆るマシンも製作。バイク仲間の輪が広がる
スクリーンはWGPにも採用
「メーカーに影響を与えるくらいの造形がしたい。でも、どんなにキレイでカッコ良くても、理にかなわないモノじゃダメなんです」
そんな蛭田さんの信条と実力が多いに発揮されたのが、かのレジェンドライダー、ケニー・ロバーツ・シニアが興したGPマシン“モデナスKR3”のスクリーンだ。
’97年にマシンのスクープ写真を見た蛭田さんは、このマシンにはマジカルレーシングの段付きスクリーンが有効と感じ、テクニカルスポンサードをオファーしたところ、チームから『鈴鹿GPで会おう』と返事が来た。そして鈴鹿に到着したマシンに合わせ、わずか1日でスクリーンを仕上げたところ、見事に採用。
これがマジカルレーシングの人気商品「トリムスクリーン」の原型となった。その後もKR3の進化に合わせてスクリーンを提供し、なんと最終的にはアッパーカウルの形状そのものが、蛭田さんがリデザインしたものが採用されたのだ。
RIDE HI編集長の小川とも20年来の付き合い。レース仲間であり人生の師でもある。大阪出張の際は自宅に宿泊させてくれる面倒見の良さに感謝
バイクに留まらずに突き進む、蛭田さんの物づくり
そんな物づくりもバイク遊び(レース)も真剣な蛭田さんの周りには、世代を超えた仲間が自然と集まる。近年は、元世界GPチャンピオンの原田哲也さんと一緒に耐久レースに参戦するなど、ますます意気軒高。
「もうすぐ70歳だから、仕事は後進に任せてレース活動を本格的にやりたい」と笑うが、やりたいことはまだまだある。じつは念願のポルシェを手に入れて、その空力パーツにも本格的に着手。さらにバイクやクルマ以外にも造形技術を活かした事業や活動も行っているのだ。
そのひとつが“デリボックス”。宅配ピザ等でバイクの後ろについている、あのFRP製の箱だが、マジカルレーシングはじつはこの分野でかなりのシェアを誇る。
「デリボックス事業で会社の地盤が安定すれば、もっとバイクのパーツ開発に前向きになれますよね」
もうひとつが『身体障害者用装身具部品の企画提携』。蛭田さんはFRPやカーボンの造形技術を、パラスポーツの機材製作に提供しているのだ。たとえばチェアスキーのシートを、マジカルレーシングが製作しているが、選手と機材が接する極めて重要な部分だ。
「これは“究極の物”に携わっていたいから。どこまでやれるか、っていうモチベーションにもなるしね。自分個人の仕事としては、こちらを主軸にしたいくらい」
蛭田さんの物づくりへのチャレンジは、まだまだ続く……。
常に新しいことにチャレンジを続ける蛭田さん。カーボンパーツは量産できない手作りのパーツだ。だからパーツはバックオーダーの物も多いが、待ってでも欲しい人がたくさんいるのだ
SUZUKI KATANA
長く伸びたシングルシートは、そのアイデアに脱帽。カーボン製のベースとスクリーンを組み合わせたバイザースクリーンや、半月形のフロントフェンダーも初代KATANAをイメージさせるが、まったくの新規形状。ホイールは同社が扱うBST社のプリプレグモノコックカーボンの5本スポーク「Rapid TEK」を履く
KAWASAKI Z900RS
レースやスポーツ性の機能を追求した造形とは異なる趣味性を持たせ、車両も息の長いモデルになると予想し、時間をかけて各パーツを開発。フロントフェンダーやバイザースクリーンは、あえてステー部分を立体的な意匠で“頑強さ”を主張。アンダーカウルもトレー構造ではなく、4気筒エンジンやマフラーを際立たせる形状やサイズを選択する。ラジエターシュラウドやサイドカバーは、ベーシックなネイキッドからの脱却を図る
BMW S1000RR
いちばん人気のアンダーカウルは、オイルキャッチのトレー構造のため、サーキットのスポーツ走行でも安心。タンクエンドは下半身で身体をホールドしやすくブレーキ時の安定感も増す。タンクサイドカバーはノーマルの分割構造と異なり、剛性の高い一体構造なので、タンクエンドと併せてフォーム作りにも役立つ。リヤフェンダーはSTDより幅広で、プロファイルの異なるタイヤにも対応。……等々、いずれもスポーツ性能の向上にこだわって造形
KTM RC390
筑波TTのKTM390/250カップに参戦するマシン。外装パーツはすべてマジカルのレーシングボディワークに換装。エアボックスに吸気を導く長大なラムエアダクトなど工夫が沢山。ホイールはBSTのカーボンでダブルディスク化。エキゾーストはヤマモトレーシング製、サスペンションは44ハイネスがセットアップする